宮沢賢治,地図の裏に未発表詩 発見

 昨年,岩手県花巻市にある宮沢賢治の生家の蔵を解体しようとした際に賢治が書いた未発表詩の草稿が,はりの上に置かれていた書類の中から見つかった。5万分の1地図の裏面に鉛筆で書かれていた。筑摩書房から刊行中の賢治の全集の編纂委員が確認したところ,未発表の草稿と判明した。

 この記事が載ったいろいろな新聞の切り抜きをファイルにして,社の取締役が態々おじさんの所まで持ってきて下さったので,仕事中に一六行の詩を読むことができた。

 賢治の生家の蔵は,それほど大きなものではない。花巻へ行くとあの蔵に何かまだありそうだとながめていた。その蔵は花巻大空襲の難から逃れ残ったそうであるが,賢治が羅須地人協会で農民に科学を教えるために作った教材絵図などは,外の熱気で蒸し焼き状態になったそうである。復元するのに大変な苦労をしたという話を聞いていた。ましてや,はりの上に置かれていた書類の中から見つかったということで,本当かいなと思った。
 一読感想,イタリアの未来派的な詩だなと思った。未来派が活動していた時期の賢治は和歌を詠んでいたから,影響は受けていなかったと思うが,国柱会に入会したような人だからわからないが。
 草稿は,「春と修羅」(1924年)の刊行後に書かれたものと見られると新聞に書かれていた。確かに1924,25年はたくさんの詩を書いている時期なので当たる確率は高い。
 草稿は,地図(5万分の1の「水沢」地図・大正2年測図)の裏側に,鉛筆で走り書き風に記されていたとある。水沢周辺の詩というと「湧水を呑まうとして」「五輪峠」「丘陵地を過ぎる」「人首町」「晴天恣意」がある。「春と修羅」の刊行1ヶ月前の2日間の一群の詩である。賢治の詩は,ある何日間にあるところで詩作(心象スッケッチ)をしていたから,書かれた時期を推定するのは容易なのだが,この草稿に思い当たる一群は思い出せない。
 この草稿の書かれたところは,5行目「上流でげい美の巨きな岩を」から,気仙沼線猊鼻渓であろう。猊鼻渓との関わりは,猊鼻渓の近くに東北採石工場があったこと。賢治はこの工場の石灰の販売をやっていた。ほとんど童話も詩も書いていない時期で,今までに書いた口語詩を文語詩に書き換えたり,「雨ニモ負マケズ」を書いた賢治の晩年である。
 静六さん(賢治の実弟)の文章力を知っている人たちは,静六さんの作品と思っているのでは,おじさんもそのひとりである。

 筑摩書房から刊行中の賢治の全集は,新校本・宮澤賢治全集(宮沢清六, 天沢退二郎 編集)で,おじさんも16巻まで買って持っているが,賢治生誕100年の時に刊行だから,11年目にして完結したのが驚いた。

宮沢賢治,地図の裏に未発表詩発見のニュースにふれて・・・