遠野物語 その1

遠野物語

 今年は,柳田國男遠野物語が刊行されて100年にあたる。早々にサライの1月号は遠野物語であった。
 遠野物語の奥付によると,正式な刊行は明治四十三年六月となっている。奥付と云ったが本物を持っているわけわはない。聚精堂と云うところから350冊出たそうである。今で云う自費出版である。知人に配られ,一般人に出版物として読まれるようになったのは,昭和十年刊行の増補版(郷土研究社)からである。増補版と云うことから察して,現在の角川文庫の「遠野物語」の体裁と同様と思われる。
 遠野物語は,「此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年二月頃より始めて夜分折々訪ね來り此話をせられしを筆記せしなり。」と始まる。
 遠野の人佐々木鏡石が陸中上閉伊郡岩手県遠野市)一帯の伝説などを柳田國男に語って聞かせた。柳田國男は鏡石の話を筆記し,後に「願はくは之を語りて平地人を戰慄せしめよ」と刊行した。これが遠野物語の始まりである。

 佐々木鏡石,鏡石はペンネームである。本名は佐々木喜善と云う。繁と云う名もあるようなので,喜善もペンネームかもしれない。出身は遠野郷土淵村の出身,生家は遠野観光の名所のひとつになっている。喜善は,文学者を目指し上京する。この間に柳田國男と出会う。文学の夢は果たせず帰省する。推されて村長を務めるが,何かの失敗で故郷を追われ,独自の民俗学の道を歩む。

 佐々木喜善の晩年と宮沢賢治の晩年は重なる。民俗学だけでは生活できない喜善は,賢治を頼り花巻の町でエスペラント語の塾を開く。喜善と賢治の出会いはおそらく座敷わらしである。賢治の童話に「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」(雑誌・月曜・大正十五年二月号)と云うのがある。喜善は,民俗学の黎明期に「奥州のザシキワラシの話」(大正九年)を刊行していた。続編を考えていた喜善は,「ざしき童子のはなし」の掲載を賢治に依頼する。昭和の頭に,喜善と賢治の付き合いが始まるのではないかと思われる。賢治は,遠野物語の佐々木鏡石とは知らず付き合っていたと思う。「ざしき童子のはなし」の三話のうち一話が「ザシキワラシの話」(昭和四年)に採用,東北文化研究に発表された。掲載されなかった二つの話は,作り話と判定されたのかな。
 昭和八年九月に賢治は亡くなる。一年後の九月に佐々木喜善は仙台で客死した。


遠野物語」刊行100年を期に,蕪素の遠野物語をまとめてみようかなんて気がおきた。